フィリピンの見所!穴場!旅行!色んな情報などを共有しよう

フィリピンに旅行の参考や注意点、この国の良い所を知ってもらいたいです。

マウント・サマット・シュライン

フィリピンでは、4月9日を勇者の日 (Araw ng Kagitingan) として休日に定めています。
このMt. Samat Shrine(マウント・サマット・シュライン)に訪れると理由が分かります...
サマット山に立つ! 戦時の勇気を讃える慰霊堂
2メートルの巨大な十字架で頂上は展望台になっており記念のモニュメントの壁などがあります。

太平洋戦争中1942年フィリピンに於ける日本軍によるアメリカ軍兵士及び民間人捕虜の死の行軍、大量の捕虜と日本兵が死亡、負傷しました。
このことが、バターン死の行進(Martsa ng Kamatayan sa Bataan)と言います。


1941年12月23日、台湾から派遣されたフィリピン攻略の主力部隊である本間雅晴中将率いる第十四軍がルソン島リンガエン湾に上陸したことから始まり...
フィリピン防衛の任に当たっていたのはダグラス・マッカーサー率いる米比軍!
マッカーサーは12月24日マニラの無防備都市宣言を行った後マニラから撤退、バターン半島のコレヒドール要塞に立てこもり...日本軍は翌1月2日にマニラの無血占領に成功。


3月12日マッカーサーは "I shall return" の言を残してコレヒドールから脱出
この言葉は、聞いた事があると思います...
4月9日日本軍はコレヒドールを死者130名、負傷者6808名を出して占領
1942年4月10日降伏したエドワード・P・キング少将率いる米比軍は約7万6千もの捕虜を出しました。日本軍側の予想を遥かに上回るものでした...
その為、全ての捕虜を輸送トラックで移動することが出来ず...将軍も含めた捕虜の半数以上が徒歩で行進!
また、米兵達は降伏した時点で既に激しく疲弊...戦火に追われて逃げ回り、極度に衰弱した難民達も行進に加えられてたそうです...


トラックで運ばれたものや行進の先頭にいたもの以外はなんらかの残虐行為を受け...
辻政信はこの戦争は人種間戦争であるとして、アメリカ人兵士は白人であるから、そしてフィリピン人兵士は裏切り者だから処刑しろと扇動しており、独断で「大本営から」のものとする捕虜の処刑命令を出していたそうです!!
その残虐行為から収容所にたどり着いたのは約5万4千人
約1万人がマラリアや飢え、殴打、処刑などで死亡したと言われています...
戦争の酷さがわかる場所です。

↑記念のモニュメントの壁には、死の行軍の一部始終が英語で説明されています。
戦争時に使用された武器も展示してあります...

身近なフィリピンの方やお子さんと一緒に行き...命の尊さなどを知るキッカケにして下さい。